函館 五稜郭公園と桜
五稜郭公園は、伏見から始まった戊辰戦争の終結の
箱館戦争の舞台となった場所、星型城址の五稜郭は
今は公園となり市民の憩いの場所になっています。
桜咲く4月下旬~5月中旬の桜の満開時には、公園は
春を待ちかねた函館市民がお花見を楽しんでいます。
この五稜郭の桜は、大正3年に函館毎日新聞の発刊
1万号を記念してサクラを植樹したのが始まりです。
五稜郭公園の桜は現在約1610本があり種類としては
ソメイヨシノ1560本関山・南殿・ウコン・八重桜等
が50本植えられていて春には満開の桜となりますが
公園の97%を占めてるソメイヨシノを説明しますと
ソメイヨシノ(染井吉野)
バラ科サクラ属の落葉高木で300種類ある日本の桜の代表、葉に先立って咲く花は春の訪れを嬉しく実感できます
桜は北海道から九州の各地に植栽されているが、都市部に植栽されているサクラのほとんどはソメイヨシノであり
特に関東地方ではその傾向が高いこのソメイヨシノは江戸時代の終わりの明治初期に染井村の植木職人が、吉野桜
として売り出したのが始まりで、本種の起源とされるがヤマザクラの名所として名高い、吉野山のサクラも吉野桜
と呼ばれていたので、明治18年に上野公園でサクラの調査が行われた際に混同を避けて、ソメイヨシノに改めて
明治33年に発表したものであります。
開花は一般的に3~4月、日本全国のソメイヨシノは全て同一の、ソメイヨシノから接ぎ木して作られたもので同じ
遺伝子を持つ桜です、ソメイヨシノの起源は、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種としたが、これらを掛け合わ
せて再現するも未だ成功しておらず、経緯は分かっていないが両者の雑種であることは遺伝子情報から支持がある
花の色は薄いピンクのイメージだが、実際にピンク色が帯びるのは咲き始めだけで時間の経過とともに白くなって
行く、乾燥や潮風に弱く暖地では花の形が綺麗にならない為、東日本にソメイヨシノが多くなっている様です。
ソメイヨシノの育成ポイント
・日当りが良く肥沃な土地を好む ・寒さには耐えるが札幌周辺が生育の北限
・病気(テングス病)や害虫(モンシロシャチホコ、オオシズアオノラガ、ヒロヘリアオイラガ等)が多い
・近年外来種、クビアカツヤカミキリの食害があり、桜の樹に穴をあけ卵を産み付ける、その幼虫が大量発生
して樹の内部を食い散らかす、対応には住友化学の薬剤「ロビンフット」が有効とされている。
・寿命は50年~60年(長くて100年程度)で一般的な樹木に比べれば短かく樹盛期は30~40年目となる。
ソメイヨシノは非常にデリケートな性格で、剪定すると切り口から腐敗菌が侵入して枯れ込んだり、樹勢が
弱って花付きが悪くなることもある。
・幹が直立することはなく、成長すると共に傘を逆さにした様な樹形になるのが基本でありこのため狭い場所には
向かない、剪定は落葉期に枝の付け根から切除し切口を接ぎロウ又は石灰硫黄合剤などで塗布し腐食を防止する
・病気の葉は赤くなる。
ソメイヨシノに似たサクラ
ソメイヨシノと同じ様には花弁の先がへこみ、短い柄に数輪咲くものには以下のものがある。
エドヒガン・オオシマザクラ・タカネザクラ・ヤマザクラ・シマザクラ・イズヨシノ・アマギヨシノ等です。
・クローンとは
栽培品種の単一の樹を始源とし同一起源を持ち、なおかつ均一な遺伝情報を持つ、核酸・細胞・個体の集団
核酸とは、動物と植物に含まれる有機化合物で遺伝子を司る(DNAとRNAの二つがある)
・テングス病とは
ソメイヨシノを始めとするサクラのテングス病は、カビの一種によって引き起こされる植物の病気
枝から沢山の枝分かれしている部分(枝の一部が膨れてコブになりこの付近から一斉に出た小枝はほうき状に
見えます)これがあれば、テングス病と考えられますが、処置としては薬剤による防除は確立されず剪定によ
り枝のコブより下から切り落として、切り口に殺菌剤を頒布して処理するのが一般的です。
ちょっと変わった樹形!
落葉期、五稜郭公園のサクラのシルエットを見ると
少々違和感を覚える事でしょう、それはここに立ち
並ぶサクラが、幹の途中からぶっ切られたような
不格好な形ををしているからです。
地元に居て見慣れた風景になっている私はさほど疑問
に思わず過ごしてきましたが、その形には違和感を
覚える人は、意外と多い様です。
それは平坦な土地に整然と植えられている為、葉の無
い時期になると余計に形が、目立つようになります。
理由は、過去に幹を途中からバッサリ切ったからです
が、疑問が残ります。
当時を良く知る五稜郭公園の管理主任のお話によれば
サクラの植栽は、大正3年から始まり昭和40年頃まで
に約11300本が植樹され植栽当時は苗木が数メートル
(予想値約3m前後)間隔で植えられかなりの密植であったと思われます、その後約40年すくすくと、成長続けた
サクラは、平成に入ると高さ14~15m位にまで成長しました。その間、枯れたり伐採されたりと徐々に枝を減らし
現在の数、1600本前後になり過密状態で上へ上へと成長を続けたサクラは、日照不足で飄々と背の高いマッチ棒の
様な形になり下枝が枯れ、花付きが悪く、病気が蔓延し剪定などの日常管理にも支障があり多くの問題をかかえて
改善を迫られる様になりました。そこで管理事務所では、解決策として日常管理のしやすい低い位置に、後継枝を
育てるために、幹・太枝を現状の半分位の位置で切断することを決断しました。材質腐巧になりやすいサクラに
とっては、太枝や幹の切断は致命的なダメージを負うことになりますが現状の改善のためには、避けられない決断
だったと思います、この頃すでにサクラの名所になっていたので、この決断は大変な勇気のいる事だと思います。
ただこの決断がなかったら、枝枯れや樹勢の衰退が進み、名所としての存続は無かったことでしょう。
またその後の丁寧な処置・管理体制がサクラを救い、現在まで名所として存続させることが出来たのだと言えます
この工程は平成3年から始められて、すべての幹を切るまでに7年の歳月を要して、その後日の光が入り込む様に
なった幹からは、新たな枝が伸び花をつけるようになりました、改善効果の表れですし先人達のサクラへの愛情と
勇気のある決断の証でもあります。 日本花の会 山上 勝治先生の寄稿文より抜粋
ここにある様に、歴史とあらゆる努力によって今も五稜郭公園の桜は生き続けて,春に咲き続けているんです。